唐代禅界の最高峰 「趙洲以前に趙洲なく、趙洲以後に趙州なし」とまで讃えられた高僧、趙洲(じょうしゅう)の言葉は 執行さんの人生観の中心に座っているものがとても多く、その一つが
「至道無難、唯嫌揀択 / しどうぶなん ゆいけんけんじゃく」
えり好みをせず全く好き嫌いをなくして人生にでてくることに全力で事にあたれば必ず道に到達する
「道に至るにはどうすればいいでしょうか?」 という弟子の問に答えたもので、これと葉隠れの合体が「運命への愛」など彼の運命論の土台になっている。
弟子の「澄澄たる絶点とは?」 「清々しい道に到達した魂が本当に開いた状態とはどういうことでしょうか?」に対する答えが
「穴に落ち 堀に足を踏み込んで落ち続ける生き方である」
執行さんの幸福論の元になっている言葉。
意味は
「自分の運命に与えられた本当の試練、悲しみ、絶望、他人から見ていて不幸に襲われた時が 実は自分の道が開けた時である。
その時はわからなくても後から考えると、その時が 自分が道に到達するための最も素晴らしい、生涯を共にする思想を自分なりに掴んだ時だった。
運命の本当の価値・絶点は不幸のどん底に落ちているまさにその時である。」
本当のくるしみやかなしみがないと絶点はわからない
本当の苦しみや悲しみが人生に襲ってきた時に宇宙から 己の存在における自分の一番素晴らしい魂を自分がつかみ取る時がその時来てる
このことは自身の体験から言える。
上手く行っているときや運のいい人はこの素晴らしい点、宇宙と一体になる地点は掴めない。
私も2年ほど前 本当に苦しかった。たしかにその時提示された思想というか考え方を掴んだ。その前にも言われていて気づいていたこともあったが実行しないでいたのをやらざるを得ない状況に追い込まれていた。今までのやり方・考えを手放し未知の領域に踏み込んだことで 自分の道が開けてきていると感じる。
思えばきつかった20代後半から30代前半、己や自社の存在価値は何かとずっと自問していた。何のための人生なのかなと。たしかにその頃、日本のこと、家のこと、先人への思いが定まった時だった。執着が薄れ軽くなりそれが理念として固まった後、業績がV字になった。
今までなら「自分が得たのはそんなすごいものではない」と自己否定してきたが、今なら「まあ絶点と言って差し支えないだろう」と思えるようになった。
学生時からゲーテの
「泣いてパンを食べたものでなければ 人生の本当の味はわからない」
という言葉が好きで、それを支えもしてきて、やはりそうだったんだとつながった。
昨夜 ある会で、私の意識の型で 至った時のテーマ、キーワードは?と問うたところ、(別の人の型のが「赦し」と聞いて)
「私の型はつかみどころがないので いろいろあるが、1つは人間賛歌」と言われ 思いがけず涙がでた。
趙洲 12時の歌
80歳で全ての地位を断って故郷の荒れ寺で粗食な乞食坊主の暮らしをする。死ぬまでの40年間。
その時に詠んだ歌で1日の暮らしを愚痴っている。
もっとも偉大な生命を 文句、人の責任にばかりしてるのに、もっとも偉大な人生を送っている。
愚痴ばかり書いてるのに尊敬される凄さ。
偉大な禅匠だけれども 人間の悪徳、弱いところが80歳をこえて全部出ているのが彼の魅力。ただ偉いとか頭がいいとかすごい、巨大とかを通り越した偉大な人生。人間の一番奥深い真実だと思う。このような人生を会得したい。(執行談)
乃木希典将軍が日露戦争に出征する折、中原南天棒から送られた公案(参禅者に出す課題)が
「趙州の露刃剣」
趙州露刃剱,寒霜光焔焔,更擬問如何,分身成両段
じょうしゅう ろじんけん かんそうひかりえんえん
いかにと問うて擬すれば 身を分かって両断となす
(その剣に対して謂れをもし人が問えば、問うた人をその場で両断する)
趙洲が持っていた魂の剣(神剣) を露刀剣という
「露刃剣を自分の魂の中にもたなければ生命の大業は成せない」と乃木に説いて与えた
彼はそれを考えながら 旅順、奉天会戦を戦い抜いた。
寒々とした世界(霊界)で焔焔と光を放つ剣 意志であり太古の人間の魂といえる この天与の剣は己の目の前にある。
それを掴むかつかまないかである。
訊く、調べるものではなく 命がけの生き方だけがその剣と出会う人生を招く。
体当たりして自分のモノにする剣
己の信念に対する勇気・覚悟 不退転の決意
この剣によって自己のいばらの道を切り開く。
その者は自由になれる、愛を断行できる、憧れに向かって死ぬことができる。
それを持たなければ生命の一番深い 絶点を掴むことはできない。
「同じ人間が誰に劣り申すべきか」
公案とは意識して考え抜けば誰でも答えがでる = 誰でも露刃剣をもてる
これをもてば12時の歌が断行できる人間になれる らしい。
「仏に逢うては仏を殺し 祖に逢うては祖を殺す」
「不退転の決意を表す思想。決断とはこのことを言う。それは悲しみであり怒りなのだ。慟哭と憤怒のない決断はない。決断とは憧れに向かう魂の激震のことだ。
存在の日常性を殺さずしてどうしてその根源にたどり着けようか。真の希望とはすべての存在を殺した先にある 何ものか なのだ。まず自分が死なずしてどうしてそれができようか」
善悪の彼岸を生き 己の道を行く覚悟、決断。その先に本当の自由があるのだろう。