「どう死ぬか」が決まらないと「どう生きるか」が定まらない。
「最後どうなりたいか」が決まらないと過程が決まらないと言われ
とても納得した。
昔の日本人は(明治以降の人達でも)ふつうに皆 死生観を持っていたそうだ。
一般的に知られているのは
「畳の上で死にたい」 「家族に看取られて死にたい」
このように簡単でもいい。それぞれ
「無茶はしない生き方」「家族と仲良く」
という「どう生きるか」の軸はできる。
死に方が決まれば自分の現世の生き方は自動的に決まる。
このように決めた生き方以外はたえずゆれ動く浮草の人生になる。
そして正しい生き方で人生に体当たりをして、苦悩し呻吟すると、
己の使命がわかるようになる。
日本人は仏教の無常観の上に自己の死生観を立てた。
その無常観が発展し何事かを積極的に為そうをしたときに
生まれた思想が武士道の特に「葉隠」である。
だから日本人は、全ての事柄の中に無常を感じなければ正しい生き方はできない。
無常とは「もののあはれ」と言われたものだ。
大宇宙の中に生存する、我々の生命のもつ悲哀の認識ともいえよう。
古代ローマでは「死ぬために生きる」というストア派の哲学が
上流人の道徳であった。
キリスト教や仏教などの信仰も「死を想う」ことが人生の生きる中心を占めた。
人は天の国へ行くために生きる。 ⇒ 死に方が決まっていた。
昔の日本人は 魂は変わらないまま 生まれ変わると信じていた。
なので 魂が汚れるような行為を恐れたそうだ。
執行氏の死生観は 「ただ独りで生き、ただ独りで死ぬ」と
自身で編纂された「葉隠十戒」に集約されると思う。
ホテルに帰って私の死生観を考えた。
「敷島の 大和心を 人問わば 朝日に匂う 山桜花」
好きな歌が浮かんだ。
家業である会社を強くし、社会性の高いものにして 後に継いでいってほしいが、
執着になるとよくないので思考から外した。
「独りで死ぬ」は憧れるけどちょっと淋しいので「近しい人に看取られて死ぬ」
がいい。ただ物理的に無理があれば居なくても仕方ない。
それに最後は一人で思いを巡らせたい。
その思索の楽しみの邪魔をされたくない気もする。
昔の友人が「葬式に1000人きてもらうのが目標」とか言ってたのを思い出した。
私には合わないと考えていたら 「名や地位はなくていい」と思った。
わかってくれる人がいればそれでいいかなと。そして自分が一番わかっている。
これだと自然体でいられ軸がぶれない。
学生時代に読んだ遠藤周作の「死海のほとり」の弱々しい愛の人イエス。
その人の好む好まざるにかかわらず「人々の人生を横切る」
あのようになりたいと願っていた。
エニアグラムのタイプ1 である私にはまさにふさわしい感じがする。
「徳は孤ならず必ず隣あり」
30才過ぎで伊與田 覺 先生に1年間 論語を学ぶ機会を得たが、
この言葉だけ強烈にずっと覚えている。 大好きな言葉。
黙々と陰徳を積む生き方は日本的で美しい。そして職人気質な誇りを感じさせる。
この言葉どおり かなり辛いが。。
「名や地位はなくていいので信念を貫いて死ぬ」
「ので」 をつけると途端にくだけた感じになっていい。
「いつでも死ぬことのできる者だけが、信念をもって生きることができる」
ストア派の哲人セネカ(ローマ皇帝ネロの家庭教師でもある)
「いつでも死んでいい」とは思わないが 見苦しいのは恥ずかしい。
信念を貫ければ 死ぬ瞬間、幸せな、充実した人生だったと思える気がする。
「自分の信念」
私の人生観 2016年秋
「人生とは恩送りであり、己の使命に気づき、一生を全うすることである」
恩送り
日本が良い方向に向かうよう努める
インテリアから豊かな暮らしを広げて 自分達も楽しむ
日本的な美や理を知り伝える
家業を継げる・家系が栄えるよう努める
現時点での考えをまとめました。